ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章4・5・6第一・二・三の異教の人々経の解説の前半

 第6章4・5・6第を一・二・三の異教の人々経は、お釈迦様が教える相手により理論的に、当時のインドの理論を使って、インドの理論好きなお弟子さんたちに向けて説いた経典です。
 インドは0を発見した理論の国です、その当時の理論を引き合いに出しながら、対立することなくお弟子さんを導いていく驚愕のお釈迦様論理をじっくり味わってください




 6.4 第一の異教の人々経、6.5 第二の異教の人々経、6.6 第三の異教の人々経、この三つの経典は、表題通りに一つの教えです、お弟子さん達は、お釈迦様の教えを受ける前に、多くの異教の教えを学んできた人が多く、お弟子さん達が学んできた教えを引き合いに出しながら、ご自分の教えを解るように説法されたのが、この三つの経典です。
 お弟子さん達が、いままで学んできたことである当時の教えをまとめて、生かしながら、対立しないように、お弟子さんが自ら考えられる方法(形式・考え方)を与えながら、お弟子さんの修行(理解)の進み具合に応じて、ご自分の教えを説いています。


 6.4は真理を悟るには、どうすればよいのかというお釈迦様の教えを仏教以外の人々の教説を取り上げて、修行を始めた頃のお釈迦様の弟子や仏教以外の人々に説いた経典です。
お釈迦様の真意を要約すればこうなります


①あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
(1)<世界は、常恒である>のではない 
(2)<世界は、常恒でない>のではない
(3)<世界は、無限である>のではない 
(4)<世界は、無限でない>のではない
(5)<生命と肉体は同じものである>のではない
(6)<生命と肉体は別のものである>のではない
(7)<真理に達した人は死後に有る>のでない 
(8)<真理に達した人は死後にない>のでない
(9)<真理に達した人は死後に有る>かつ<ない>のでない
(10)<真理に達した人は死後に有るでもない>かつ<ないでもない>ことがないのでない


 ①は、ものの見方(見解)は有ってもそれを絶対と言って説くなということです、新しい科学的な発見などが有れば結果は変わります、つまりは無常ということです。
(1)(2)は表面的に見える裏側にある変化しないものがあるから現象世界が現れるということ、だから人間は年を取っていくということ。
* 常恒(sassata)とは変化しない永遠のものが常にあるということ。常住(nicca)はそのものは変化するが常にあるということ 
* anicca(無常)とasassata(常恒でない)はべつの意味
雨ざらしの錆びていく鉄のオブジェが常にそこにあるがnicca
雨ざらしでも錆びない金のオブジェが常にそこにあるがsassata
(3)(4)無限とは、この世は無限に広いかどうかと、無限の世界とは、神の世界(天界)のことで、苦しみのない世界という意味です
(5)(6)生命と肉体とは、仏教では名色のことですが、お釈迦様の時代には一般的には、生命とは魂のようなものがあるから生きている、その魂のようなものに我(アートマン)が宿ると考えられていました
(7)~(10)は、お釈迦様は亡くなったあとは、どうなるのかということで、(7)は、ある、(8)は、ない、(9)は、あるとない、(10)は、あるでもなくないでもない、という論議です


 一見、当時の思想に対する回答の形をとりながら、お釈迦様は対立を避けながら、ご自
分の教えをそれぞれの側面から、仏教徒以外や修行の初めのころのお弟子さんに、説いています


仏教徒以外や修行の初めのころのお弟子さんにむけたお釈迦様の教えです
Ⅰ (1)(2)は時間に関する説明、永遠なるものは世界などの形而上学説を否定して
「無常」を説く
Ⅱ (3)(4)は空間(存在)に関する説明、有限なるものは世界などの形而上学説を否定して「苦」を説く
Ⅲ (5)(6)は現象(特徴)に関する説明、生命と肉体は同じものである世界などの形而上学説を否定して「無我」を説く
Ⅳ (7)~(10)は涅槃に関する説明、如来は死後などの形而上学説を否定


*Ⅰ・Ⅱ・Ⅲでは相手の説を「中道」で封じていく
*Ⅳでは、四句分別で法のかたりうる体系の限界を示し、論議を切り上げる。どこまで語りうるか限界を示せばいい、反発をさける配慮


*<生命と肉体>つまり<我(アートマン)>は、<ある>でもないかつ<ない>でもない、と説いています


無我は仏教独自の説であり、仏教以外の人々は自己(attan)(サンスクリットではアートマン)つまり我があるのが前提で話すので争いになります。この争いを避ける話し方が(5)(6)です、お釈迦様は<生命と肉体>つまり<我(アートマン>は欲の産物である執着と見て取っています。仏教以外の人々(現代人も)は自己を執着とは見ないので執着と言わずに存在論という形而上学をもちだし、仏教以外の人々の言葉をつかって、我(アートマン)とは~ と語る


修行を始めた頃の弟子もお釈迦様の教説以外を学んでいる人が多く、仏教以外の人と同様に、今まで学んできた言葉(用語)でお釈迦様が説明しています


我(アートマン)は、<ある>でもないかつ<ない>でもない、と説いています
 この説き方が中道の教えです、詳しくは次のページをご覧ください


「中道」について、例えで説明します
最初に、絶えず動いている橋を、自分が綱渡りのように渡っている姿をイメージしてください
右を歩くと落ちます 
左を歩くと落ちます
 真ん中を歩くと落ちます
ではどこを歩くと渡れましたか? 
言葉で表現してください
 お釈迦様は
右でも左でもない と言っています


<右>は落ちる ×
<左>は落ちる ×  
<右>かつ<左>は落ちる ×
<右>でもないかつ<左>でもない ○
  右でも左でもない これが ○ つまり中道です。真ん中は中間であって中道ではないです
下記のように語られることもあります


×は省略されて○のみ語られる場合もあります
<右>でもないかつ<左>でもない これが正解です
 上記のような中道の答えかたもあります


(1)(2)をならべてください
<世界は、常恒である>のでない<世界は、常恒でない>のでない 
(3)(4)をならべてください
<世界は、無限である>のでない<世界は、無限でない>のでない
(5)(6)ならべてください
<生命と肉体は同じものである>のでない<生命と肉体は別のものである>のでない
この文章は無我の現象(特徴)を説いていますが、我はあるという仏教以外の人々と争わないように、<生命と肉体>つまり<我>とはと説いています


これがお釈迦様の法(教え)中道です



「四句分別」について、例えで説明します
橋を渡ろうとするときに
右を歩くと落ちます  
左を歩くと落ちます  
真ん中を歩くと落ちます
右でも左でもないのでないところを歩くと落ちます


ではどこを歩くと渡れますか?


<右>は落ちる ×
<左>は落ちる ×  
<右>かつ<左>は落ちる ×
<右>でもないかつ<左>でもないのではない ×
どこを歩いても落ちます、これは言葉では言い表せないということです、つまり涅槃は言葉では言い表せないという表現です


(7)~(10)をならべてください
如来は死後に<有る>のでない
如来は死後に<ない>のでない
如来は死後に<有る>かつ<ない>のでない
如来は死後に<有るでもない>かつ<ないでもない>ことがないのでない


このようにお釈迦様゙は外教徒や初めのころの弟子にむけて説いています


お釈迦様の法(教え)とは「縁起」であり「無常」「苦」「無我」であり四聖諦(苦集滅道)のこと。この教えは縁起の理法を「無常」「苦」「無我」つまり四聖諦(苦集滅道)という形でそれぞれの側面から説いている


以上のことを理解した、お弟子さんに向けて、6.5 第二の異教の人々経、6.6 第三の異教の人々経は説かれています、次回は、修行の進んだお弟子さん向けの教えです

×

非ログインユーザーとして返信する