ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章6第三の異教の人々経(現代訳・解説)


6.6 第三の異教の人々経(56)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき。お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、大勢の異教のサマナやバラモンや遍歴遊行者たちがサーヴァッティーに滞在しています。
 種々なものの見方があり、観察があり、認識があり、ものの見方のよりどころをもっていた
(1)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(2)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(3)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒であり、常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である」
(4)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒であるのでなく、常恒でないのでもない。これこそが真
  理であり他は無駄な思考である」
(5)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も自身で成ったものである。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である」
(6)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も他によって作られたものである。これこそが真理であり他は
  無駄な思考である」
(7)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでも
  ある。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(8)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も自身で成ったものではなく、他によって作られたものではな
  く、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(9)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
「楽と苦は常恒である。我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(10)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
「楽と苦は常恒でない。我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり、他
 は無駄な思である」
(11)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は常恒でもあれば、常恒でもない。我(アートマン)も世界も常恒でもあれば、
  常恒でもない。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(12)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は常恒であるのでもなく、常恒でもないのでもない。我(アートマン)も世界も
  常恒であるのでもなければ、常恒でもないものでもない。これこそが真理であり他は無
  駄な思考である」
(13)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は自身で成ったものである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものであ
  る。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(14)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は他によって作られたものである。我(アートマン)も世界も他によって作られ
  たものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(15)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。我(アート
  マン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。これ
  こそが真理であり他は無駄な思考である」
(16)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は自身で成ったものでなく、他によって作られたものでなく、無因に生起したも
  のである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものでなく、他によって作られたも
  のでなく、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である」




言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに言葉の刃で突きながら暮らしています。
 「これが法(真理)であり、これは法(真理)ではない」
 「これは法(真理)ではなく、これが法(真理)である」と。
 大勢の修行者は午前中に、衣を着て鉢と衣料をもってサーヴァッティーに托鉢のために入りました。食事のあとお釈迦様のところに近づき、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、お釈迦様にこう申し上げた。
 「尊き方よ、異教のサマナやバラモンや遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。
  種々なものの見方があり、観察があり、認識があり、ものの見方のよりどころをもっていた
(1)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(2)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(3)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒であり、常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である』
(4)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒であるのでなく、常恒でないのでもない。これこそが真
  理であり他は無駄な思考である』
(5)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も自身で成ったものである。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である』
(6)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も他によって作られたものである。これこそが真理であり他は
  無駄な思考である』
(7)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでも
  ある。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(8)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も自身で成ったものではなく、他によって作られたものではな
  く、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(9)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒である。我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他
  は無駄な思考である』
(10)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒でない。我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり、
  他は無駄な思である』
(11)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒でもあれば、常恒でもない。我(アートマン)も世界も常恒でもあれば、
  常恒でもない。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(12)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒であるのでもなく、常恒でもないのでもない。我(アートマン)も世界も
  常恒であるのでもなければ、常恒でもないものでもない。これこそが真理であり他は無
  駄な思考である』
(13)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は自身で成ったものである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものであ
  る。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(14)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
『楽と苦は他によって作られたものである。我(アートマン)も世界も他によって作られたものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(15)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。我(アート
  マン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。これ
  こそが真理であり他は無駄な思考である』
(16)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は自身で成ったものでなく、他によって作られたものでなく、無因に生起したも
  のである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものでなく、他によって作られたも
  のでなく、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
 彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに言葉の刃で突きながら暮らして
 います。
 『これが、法(真理)であり、これは、法(真理)ではない』
 『これは、法(真理)ではなく、これが、法(真理)である』」と。
 「ビクたちよ、他の異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。道理
  を知らず道理でないことを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)でないことを知り
  ません。彼らは、道理を知らずにいる者たちであり、道理でないことを知らずにいる者
  たちであり、法(真理)を知らずにいる者たちであり、法(真理)でないことを知らず
  にいる者たちです。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに言葉の刃で突きな
  がら暮らしています。
 『これが法(真理)であり、これは法(真理)ではない』
 『これは法(真理)ではなく、これが法(真理)である』」
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


あらゆる見方をする人々は私を作り追い求め
私という実感が問題を起こす
ただ一つ、そのことを知らない
私が矢ということを見ない(67)



この矢を理解すれば
私がなにをするという気持ちは生まれない
他人がいるという思いはない(68)



この人々は、くらべる心が現れて
くらべる心に、つながれ縛られる
ものの見方をめぐり激しく論争し
輪廻を超えることはない
(69)
    以上が第六の経となる


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語は、6.5 第二の異教の者たちの経と同じです


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



なにが書いてあるか



(直訳詩)
Ahaṅkārapasutāyaṃ pajā,
わたしという作り為しを追い求めている
Paraṅkārūpasaṃhitā;
この人々は、他者という作り為しを伴っている。
Etadeke nābbhaññaṃsu,
ただ一つのことを知らない
Na naṃ sallanti addasuṃ.
それを矢だと見なかった



Etañca sallaṃ paṭikacca passato,
これを矢だと、あらかじめ感じているなら
Ahaṃ karomīti na tassa hoti;
私が存在するということはなく
Paro karotīti na tassa hoti.
他者がいるということはない


Mānupetā ayaṃ pajā,
この人々は慢心を具し
Mānaganthā mānavinibaddhā;
慢心に縛られ、慢心につながれ
Diṭṭhīsu sārambhakathā,
諸々の見解について激情の議論をし
Saṃsāraṃ nātivattatī”ti.
輪廻を超えることはない



解 説


 6.6 第三の異教の者たちの経は、思考・妄想が無い状況についてがテーマです。思考があると苦しいのです。妄想があると苦しいのです。しかし、思考するのです。妄想するのです。それが人間で仕方が無いのです。
 眼・耳・鼻・舌・身にものが触れたのだから。何が触れたか分からないのだから。何か幻覚をつくらなくてはいけないのです。(物事に形態をつくらなくてはいけないのです)幻覚をつくらなかったら怖いのですね。なんで怖いと思うのかというと、生きて行きたい、死にたくないという渇愛もあるのですね。だから、どんな生命も存在欲があるならば、思考・妄想しているのです。それは生き延びるためにやっているのです。死なないためにやっているのです。ですが、成功かというと、皆、死んでいるのです、だから、人間の思考・妄想は正解ではないのです。そこらへんですね


Ahaṅkārapasutāyaṃ pajā,  
あらゆる見方をする人々は私を作り追い求め
 *生命というのは、「私、私」という気持ちで、それを中心にして回転しているシステム
  です。どんな生命にも「私」がいるんです。だから、私が見る。私が聞く。私が考え
  る。私がしゃべる。私の意見。ようするに、この眼・耳・鼻・舌・身から入る情報とい
  うのは、まとめて捏造すると、そこで「私」という核・ファクター(要因・要素)が欲
  しいのです。そこで、見ることには、もう確かに見ると(眼には)データがあるのです
  ね。見たという眼識・視覚(データ)があるのですけどすぐ消えちゃうのだから、私を
  回転させて、私の、私のと、無限につくり続ける、ということで、生命のこころの中で
  「私」がいるのです。だから、全てが「私」なんです。知識・私の知識、楽しみ・私の
  楽しみ、痛み・私の痛み、思考・私の思考、好み・私の好み。寒いと言ったら、私が寒
  い。どんなことでも「私」がいるから問題になるのです。そこで、「私」という、この
  実感で、全ての問題が起こるのです。
Paraṅkārūpasaṃhitā;
私という実感が問題を起こす
 *見解、偏見、意見、思考、すべて問題になったのは、「私」ということ(実感)があっ
  たからです。そうすると、「他人」ということも成り立つのです。
Etadeke nābbhaññaṃsu, 
ただ一つ、そのことを知らない
 *ただ、それだけの「罠」、それは引っかけだとこの人達は知らないのだよと。
Na naṃ sallanti addasuṃ.
それを矢だと見なかった
 *大げさな問題ではないのです。「私」という気持ちがあったら、あなたに「槍」が刺さ
  っているのです。心臓を通して「槍」が刺さっています。もう苦しいのです。治すこと
  もなくあなたは途中で死ぬのです。治したければ「槍」を抜かなければならないので
  す。「槍」を抜けば手当てができます。しかし、全ての宗教家が、「槍」が刺さったま
  んまで、苦しみを無くそう、無くそうと思っているのです。意味がありません。それ
  で、お釈迦さまが喜んで言っているのは、「私」という実感が「槍」なんだと、それが
  分からないのだということです。
 *それで、お釈迦さまは、正解を見つけているのです。「私」というこの概念、この幻
  覚、これが本物の「槍」になっているのです。前提として「私」が実在する、いる、存
  在すると信じているのです。全ての思考・考察の主語は「私」です。それで「他」とい
  う観念も確実に存在するのだというテーゼが成り立ちます。
 *「私」が一切の偏見的な見解の生みの親です。私という実感こそが苦しみを司る、輪廻
  転生する、原因になる槍であると(私たちは)理解しないのです。
 *(私たちは)実感があるのだから「私」がいるとみんな思っちゃう。


Etañca sallaṃ paṭikacca passato,
この矢を理解すれば
 *「この槍のことを良く理解する。なんで槍に刺されたのかと、なんで私という実感が生
  まれるのかと、それを発見したら私が存在しないでしょ。ですから、
Ahaṃ karomīti na tassa hoti;
私がなにをするという気持ちは生まれない
Paro karotīti na tassa hoti.
他人がいるという思いはない
 *注意深くそれを槍であると見る人には、「私がいる」という思いはない。彼には「他人
  がいる」という思いはない。
 *次のステージで、またお釈迦さまは、もう一度説明します。順番があります。人々が偏
  見を作る。それはシステムの問題ですね。我々には制限された範囲でしか知ることはで
  きません。それよりも次の問題、(私たちは)制限された認識なのに、「私」という妄
  想概念でまとめてしまうのですね。「私」という妄想概念でまとめると、これ「矢」で
  あらゆる苦しみが生まれてくるのです。この人には「他人」(貪瞋痴の対象)がいるの
  だから。私が悩む、私がいなかったら悩みがないでしょ。苦しみを乗り越えるのも自由
  です。
 *覚ったら、ぶん殴られても痛くないという話ではないのです。
 *感覚とか、痛みは生じるのだけども、「痛い」ではないんです。
 *「痛み」、「痛み」とは何でしょうか。寒さ、暑さ、明るさ、そんなことと同じです。
  「痛い」とは違うのです。
  「痛い」には「私」という)気持ちが入っているのです。それで、「私」が入ると、
  「他人」が現れるのです。それからマーナ(くらべる心・慢)が生まれるのです。もう
  一つとんでもない化け物が現れてくるのです。マーナというのは比較しているのです。
  ものをはかる尺度になるのです。
Mānupetā ayaṃ pajā,
この人々は、くらべる心が現れて
Mānaganthā mānavinibaddhā;
くらべる心に、つながれ縛られる
 *慢(くらべる心)があると現象は相対的であるということが理解できない。それで、変
  な相対なのですね。私がいて、この絵は美しい、これは美しくないというのは、私の尺
  度(基準)があるのですね。全て概念は相対的なものなのです。全て思考は相対的なも
  のなのです。放っておけばいいものなのです。
Diṭṭhīsu sārambhakathā,
ものの見方をめぐり激しく論争し
Saṃsāraṃ nātivattatī”ti.
輪廻を超えることはない

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