ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章5第二の異教の人々経 (現代訳・解説)


6.5 第二の異教の人々経(55)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき。お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、大勢の異教のサマナやバラモンや遍歴遊行者たちがサーヴァッティーに滞在しています。
 種々なものの見方があり、観察があり、認識があり、ものの見方のよりどころをもっていた
(1)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(2)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(3)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒であり、常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である」
(4)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も常恒であるのでなく、常恒でないのでもない。これこそが真
  理であり他は無駄な思考である」
(5)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も自身で成ったものである。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である」
(6)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も他によって作られたものである。これこそが真理であり他は
  無駄な思考である」
(7)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでも
  ある。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(8)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「我(アートマン)も世界も自身で成ったものではなく、他によって作られたものではな
  く、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(9)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
「楽と苦は常恒である。我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(10)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
「楽と苦は常恒でない。我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり、他
 は無駄な思である」
(11)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は常恒でもあれば、常恒でもない。我(アートマン)も世界も常恒でもあれば、
  常恒でもない。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(12)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は常恒であるのでもなく、常恒でもないのでもない。我(アートマン)も世界も
  常恒であるのでもなければ、常恒でもないものでもない。これこそが真理であり他は無
  駄な思考である」
(13)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は自身で成ったものである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものであ
  る。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(14)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は他によって作られたものである。我(アートマン)も世界も他によって作られ
  たものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である」
(15)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。我(アート
  マン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。これ
  こそが真理であり他は無駄な思考である」
(16)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 「楽と苦は自身で成ったものでなく、他によって作られたものでなく、無因に生起したも
  のである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものでなく、他によって作られたも
  のでなく、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である」


言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに言葉の刃で突きながら暮らしています。
 「これが法(真理)であり、これは法(真理)ではない」
 「これは法(真理)ではなく、これが法(真理)である」と。
 大勢の修行者は午前中に、衣を着て鉢と衣料をもってサーヴァッティーに托鉢のために入りました。食事のあとお釈迦様のところに近づき、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、お釈迦様にこう申し上げた。
 「尊き方よ、異教のサマナやバラモンや遍歴遊行者たちが、サーヴァッティーに滞在しています。
  種々なものの見方があり、観察があり、認識があり、ものの見方のよりどころをもっていた
(1)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(2)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(3)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒であり、常恒でない。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である』
(4)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も常恒であるのでなく、常恒でないのでもない。これこそが真
  理であり他は無駄な思考である』
(5)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も自身で成ったものである。これこそが真理であり他は無駄な
  思考である』
(6)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も他によって作られたものである。これこそが真理であり他は
  無駄な思考である』
(7)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでも
  ある。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(8)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『我(アートマン)も世界も自身で成ったものではなく、他によって作られたものではな
  く、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(9)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒である。我(アートマン)も世界も常恒である。これこそが真理であり他
  は無駄な思考である』
(10)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒でない。我(アートマン)も世界も常恒でない。これこそが真理であり、
  他は無駄な思である』
(11)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒でもあれば、常恒でもない。我(アートマン)も世界も常恒でもあれば、
  常恒でもない。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(12)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は常恒であるのでもなく、常恒でもないのでもない。我(アートマン)も世界も
  常恒であるのでもなければ、常恒でもないものでもない。これこそが真理であり他は無
  駄な思考である』
(13)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は自身で成ったものである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものであ
  る。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(14)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
『楽と苦は他によって作られたものである。我(アートマン)も世界も他によって作られたものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
(15)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。我(アート
  マン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。これ
  こそが真理であり他は無駄な思考である』
(16)あるサマナやバラモンたちは、このように説き、ものの見方をする人たちです。
 『楽と苦は自身で成ったものでなく、他によって作られたものでなく、無因に生起したも
  のである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものでなく、他によって作られたも
  のでなく、無因に生起したものである。これこそが真理であり他は無駄な思考である』
 彼らは、言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに言葉の刃で突きながら暮らして
 います。
 『これが、法(真理)であり、これは、法(真理)ではない』
 『これは、法(真理)ではなく、これが、法(真理)である』」と。
 「ビクたちよ、他の異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。道理
  を知らず道理でないことを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)でないことを知り
  ません。彼らは、道理を知らずにいる者たちであり、道理でないことを知らずにいる者
  たちであり、法(真理)を知らずにいる者たちであり、法(真理)でないことを知らず
  にいる者たちです。言争を生じ、紛争を生じ、論争を起こし、互いに言葉の刃で突きな
  がら暮らしています。
 『これが法(真理)であり、これは法(真理)ではない』
 『これは法(真理)ではなく、これが法(真理)である』」
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


あらゆる、ものの見方に引っかかる
一部のサマナやバラモンたちは
途中で沈んで死ぬ
無明を破ることには、達することはできない
(66)
       以上が第五の経となる。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 悟りという山の頂を目指して登山する熟達者向けの教え


(1)(2)(11)(12)地図を頼りに自分で歩く登山者にどのくらの時間歩けばいいの
  か、詳しい歩き方を語る
(3)(4)(13)(14)地図を頼りに自分で歩く登山者にどのくらいの距離を歩けばいい
  のか、詳しい道順を語る
(5)(6)(15)(16)登山道を歩くときに登山で重要な場所と特徴を説く
(7)(8)(17)(18)どのくらの時間歩けばいいのか、どのくらいの距離を歩けばいい
  のか、それと、地図全体の姿を語る


 お釈迦様は正しい地図を待たない人たちは、山の頂きには登れないで言い争いばかりしていると語る



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 
なにが書いてあるか


あるとき、大勢のバラモンらがこの様な、「ものの見方」をめぐって論争をしていた


(1)我(アートマン)も世界も常恒である
(2)我(アートマン)も世界も常恒でない
(3)我(アートマン)も世界も常恒であり、常恒でない
(4)我(アートマン)も世界も常恒であるのでなく、常恒でないのでもない
(5)我(アートマン)も世界も自身で成ったものである
(6)我(アートマン)も世界も他によって作られたものである
(7)我(アートマン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたもので
  もある
(8)我(アートマン)も世界も自身で成ったものではなく、他によって作られたものでは
  なく、無因に生起したものである
(9)楽と苦は常恒である。我(アートマン)も世界も常恒である
(10)楽と苦は常恒でない。我(アートマン)も世界も常恒でない
(11)楽と苦は常恒でもあれば、常恒でもない。我(アートマン)も世界も常恒でもあれ
  ば、常恒でもない
(12)楽と苦は常恒であるのでもなく、常恒でもないのでもない。我(アートマン)も世界
  も常恒であるのでもなければ、常恒でもないものでもない
(13)楽と苦は自身で成ったものである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものであ
  る
(14)楽と苦は他によって作られたものである。我(アートマン)も世界も他によって作ら
  れたものである
(15)楽と苦は自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある。我(アー
  トマン)も世界も自身で成ったものでもあれば、他によって作られたものでもある
(16)楽と苦は自身で成ったものでなく、他によって作られたものでなく、無因に生起した
  ものである。我(アートマン)も世界も自身で成ったものでなく、他によって作られた
  ものでなく、無因に生起したものである


 *上記のような絶えない、終わらない、議論、議論、議論です、自分の意見こそが正見であり、他の見解は虚妄であると誇示するからで、誇示しないのであれば仲良くすることはできるのに、争論になるのです。争論になっても決して結論には達しないのです。だから、仏陀の教えは何でしょうか?
 ‘Aññatitthiyā, bhikkhave, paribbājakā andhā acakkhukā; atthaṃ na jānanti anatthaṃ na jānanti, dhammaṃ na jānanti adhammaṃ na jānanti.
 ビクたちよ、他の異教の遍歴遊行者たちは、盲者たちであり、眼なき者たちです。道理を知らず道理でないことを知らず、法(真理)を知らず、法(真理)でないことを知りません。


 *お釈迦様は人のことをバカにしているわけじゃないのです。生命に成ってくると、ある生命の形になると、知られるものにはリミット(範囲)があるのです。だから、これこそ真理であると言えるはずがないのです。皆、自己にリミットがあることに、制限されていることは知らないのです。誰かが制限しているわけじゃないのです。だから、命というのは肉体とこころの組み合わせでしょうに。それでも、肉体も、こころも活動できる範囲は決まっている。制限しているのです。だから、常に生命のリミットがあるので、知識範囲は制限されているのです。それに気づかないのです。だから人間にはダンマは無い、真理は無い、adhamma、そうでない(ダンマ・真理でない)ものは何かと知ることはできません。そこで仏陀がウダーナを言うのです。ウダーナというのは喜びのことばだから言う必要があるのですね。
 上記の論議は仏教の世界ではないのです。あのような議論がないです。
ウダーナを言うことで自由が得られるのですね。
 Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi –
 ときに、世尊はそのことを知って、そのときウダーナを唱えられた。


 *お釈迦様がとった態度は見解を作らないことです。それで制限が破られたのです。正見
  に達している覚者にはものの見方(見解)が一切ありません。
 *ものの見方を作ることで、そこでカチッと制限されて、真実を見ることが止まるので
  す。思考の迷路から脱出しているのです。例えば、何かを見て、これは三角形と言う。
  これは三角形と思った瞬間で(真実を見ることが)制限されちゃったんです。丸いと見
  ることは不可能です。四角いと見ることは不可能です。どう見たとしても、すべて偏見
  です。仏陀が、なんでそのような錯覚が起こるのか、その構成を知っているのです。そ
  こで何かのデータが眼に触れて、眼はそれを感じて、それから、それを捏造して、それ
  で形をとって、これだとかね。それって、決定ではなくて、幻覚以外の何ものでく。眼
  で見る生命の皆に三角形が見えるかというと、そうではないんです。例えば、複眼もっ
  ているハエなんかにはどう見えるのですかね。お釈迦様は、その構成を知っているので
  す。だから見解がないのです。
 *人は、生命は何で見解つくるのかと、お釈迦様は知っているのです。
 *だから、議論する必要がないのです。
 *ネズミの死骸はご馳走か、気持ち悪いものかと議論する必要があるのですかね。ネズミ
  の死骸はカラスにとってご馳走であって、ネズミの死骸を食べない、魚の死骸を食べる
  人間にとっては、魚の死骸はご馳走であると。そこで、ご馳走はどうやって見るのかと
  いうと、どれくらい生きて行きたい、食いたいという感情によって(決める)。それも
  変化するのです。ですから、ご馳走というのは客観的・科学的な事実ではないんです。
  いろんな原因によって、一時的に現れるものなのです。だからこそ、見解は作れないの
  です。ちょっと考えてください。どれくらい我々はそういう見解を持っているか考えて
  みてください。
 *見解をつくらない、そこは自由な世界なのです。
 *だから、お釈迦さまにはちょっと感興のことばは言いたくなるのです。
 *(お釈迦さまは)思考の迷路から脱出しているのです。



(直訳詩)
Imesu kira sajjanti,
これら伝えいうことに執着する。
eke samaṇabrāhmaṇā;
あるサマナやバラモンたちは
Antarāva visīdanti,
その中間に沈む
appatvāva tamogadhan”ti.
堅固なものを得ないで



解 説
Imesu kira sajjanti,
あらゆるものの見方(見解kira)に、引っかかる、
 *見解に引っかかると、見解はいつでも偏見なので、正見じゃないのです。だから、見解は最終結論ではないのです
eke samaṇabrāhmaṇā;
一部の沙門・バラモン達は、
 *ある沙門・バラモンらは、まことに、これらの見解に執着する。
Antarāva visīdanti,
途中で沈んで死ぬ、
 *見解という罠にかかって、意見という湖に溺れているのです。
appatvāva tamogadha’’nti.
無明を破ることには、達することはできない。
 *かれらは確固たる足場に達せずして、中間にて沈む。
 *皆、輪廻転生から脱出することと、智慧が現れることができなくなります。
 *暗黒(無明)にいて、何か(見解)に掴まっている。光の方へ進めない。

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