ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第6章2 七人の結髪者の経 (現代訳・解説)


6.2 七人の結髪者の経(52)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられた。
東の聖園にあるミガーラ・マートゥの高楼(鹿母講堂:ミガーラの母のヴィサーカーが寄進した堂舎)で、お釈迦様は、夕刻時に坐禅から覚められ、門小屋の外に坐っておられたのです。
 コーサラ国のパセーナディ王は、お釈迦様のところに行き、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐ったのです。
 その時、脇毛や爪や体毛を長くした七人の結髪者と、七人のジャイナ教徒と、七人の無衣者と、七人の一衣者と、七人の遊行者とが、カーリ(升目の単位・一石)の天秤棒を担いで、お釈迦様から遠く離れていないところを通り過ぎていった。
 コーサラ国のパセーナディ王は、脇毛や爪や体毛を長くした、七人の結髪者と、七人のジャイナ教徒と、七人の無衣者と、七人の一衣者と、七人の遊行者とが、カーリの天秤棒を担いで、お釈迦様から遠く離れていないところを通り過ぎるのを見ました。
 坐から立ち上がって、肩に上衣を掛けて、右膝を地に着けて、七人の結髪者と、七人のジャイナ教徒と、七人の無衣者と、七人の一衣者と、七人の遊行者のいるところに行き、合掌をして三かい名を告げた。「尊き方々よ、わたしは、コーサラ国のパセーナディ王です」「尊き方々よ、わたしは、コーサラ国のパセーナディ王です」「尊き方々よ、わたしは、コーサラ国のパセーナディ王です」
 コーサラ国のパセーナディ王は、七人の結髪者と、七人のジャイナ教徒と、七人の無衣者と、七人の一衣者と、七人の遊行者とが立ち去ったあと、お釈迦様のところに行き、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐った。コーサラ国のパセーナディ王は
 「尊き方よ、ある者たちはこの世において、アラカンたちであるか。あるいはアラカン道
  に入定した者たちであるか。どちらかなのでしょうか」
 「大王よ、愛欲を受ける者、あなたのような在家者、子どもと寝床を共に居住している
  者、カーシ産の栴檀(せんだん)香を味わっている者、花飾や香料や塗料を身に付けて
  いる者、金や銀を愛用している者である。あなたは、これらの者たちが、アラカンたち
  であるのか、アラカンの道に入定した者たちであるのか、ということは、知り難いこと
  です
 大王よ、修行者の暮らしは共に住むことによって知られるべきものなのです。
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 大王よ、人の清らかさは、対話によって知られるべきものなのです
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 大王よ、人の強さは、逆境において知られるべきものなのです。
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 大王よ、知慧は、論議の場において知られるべきものなのです。
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、といい
  ますのは世尊が見事に語られたことです。『大王よ、欲望の対象を受ける者、あなたの
  ような在家者、子どもと寝床に共に居住している者、カーシ産の栴檀(せんだん)香を
  味わっている者、花飾や香料や塗料を身に付けている者、金や銀を愛用している者であ
  る、あなには、『これらの者たちが、アラカンたちであるのか、これらの者たちが、ア
  ラカンの道に入定した者たちであるのか』ということは、知り難いことなのです。
 大王よ、修行者の暮らしは、共に住むことによって知られるべきものなのです。
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 大王よ、人の清らかさは、対話によって知られるべきものなのです。
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 大王よ、人の強さは、逆境において知られるべきものなのです。
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません。
 大王よ、知慧は、論議の場において知られるべきものなのです、
  長い時間をかけてしばらくの間ではなく、長い時間、注意をはらう者によって知られる
  べきものなのです。注意をはらわない者によってではありません。知慧ある者によって
  知られるべきものなのです。知慧が浅い者によってではありません』
 尊き方よ、これらの者たちは、わたしの家来たちで、盗賊、密偵として、地方を偵察してまわっています。この者たちが、最初に偵察し、わたしは、そのあとで訪ねるのです。尊き方よ、彼らは、ちりと垢を流し去って、よく沐浴し、よく油をぬり、髪と髭を整え、白い衣を着て、五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を楽しんでいるのです」
  お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました


いかなる場合でもただ努めることがあってはならない
他人の使用人になることがないように
他人に依存して生きることがないように
法を語ることを商売とすることがないように
(63)
        以上が第二の経となる。



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パセーダ王がお釈迦様を訪ねて来て、アラカンとは、修行者の暮らしは、人の清らかさとは、人の強さは、知慧とはどう知られるのか尋ねた。お釈迦様はそれぞれ答えを告げたお話



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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Na vāyameyya sabbattha,
すべての場所で努めるだけでないように
nāññassa puriso siyā;
他に従属することがないように
Nāññaṃ nissāya jīveyya,
他に依存して生きることがないように
dhammena na vaṇiṃ care”ti.
法(教え)による請求を行わないように



解 説


Na vāyameyya sabbattha,
いかなる場合でもただ努めることがあってはならない
nāññassa puriso siyā;
他人の使用人になることがないように
 *誰かの使用人になれば解脱はできない
Nāññaṃ nissāya jīveyya,
他人に依存して生きることがないように
 *出家でも世間の人々と関わり過ぎると解脱はできない
dhammena na vaṇiṃ care”ti.
法を語ることを商売とすることがないように

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