ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第5章9大騒ぎをしながらの (現代訳・解説)

 


5.9 大騒ぎをしながらの経(49)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、コーサラ国において、ビク衆と共に遊行の旅を歩んでおられた。そのとき大勢の若いバラモンがお釈迦様から遠く離れていないところで大騒ぎをしながら浮かれた様子で通り過ぎます。お釈迦様は、大勢の若いバラモンが遠く離れていないところで大騒ぎをしながら浮かれた様子で通り過ぎるのを見ました。
  そのときお釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
利口ぶった議論は惑乱している
言葉に頼る話し手たちであるなら
欲求のままに口を開けて話すのみ
おのれを悟りに導く法を知らない
(60)
     以上が第九の経となる。


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 お釈迦様の時代にインドの仏教以外の若い修行者が品のない大騒ぎをしたのを、見られたお話
 インドは討論好きな人々の国です、現在のバラモンもですが、お釈迦様の時代のバラモンの人々も、特に若い人々が、単に騒いでいるだけでなく、むだな討論をしていても、騒いでいるように見えたことでしょう、お釈迦様の討論に対する、お考えが表現された、物語です。


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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Parimuṭṭhā paṇḍitābhāsā,
錯乱した人たちが、賢く語っても
vācāgocarabhāṇino;
その言葉だけでの範囲で唱えるなら
Yāvicchanti mukhāyāmaṃ,
欲と離れないで口を大きく広げても
yena nītā na taṃ vidū”ti.
それによって導かれても、賢者はそれはないと語る



解 説
Parimuṭṭhā paṇḍitābhāsā,
利口ぶった議論は惑乱している
 *Parimuṭṭhā利口のつもり;人は、普通に自分は利口であると思っているのです。自分自
  身で考えて判断することは先輩たちも推薦します。自分の周りのことについて、教えら
  れたことについて利口ぶることはできますが、それも年(時間の経過)と経験と場所に
  よって変わります。
  怯え、不安などがこころを負(お)う(覆(おお)う)と利口さもなくなります。それでも
  話すときは自分が正しいことを知っているのだと勘違いしているのです。
vācāgocarabhāṇino;
言葉に頼る話し手たちであるなら
 *知識人(言葉に頼る話し手)の問題:知識人は落ち着いて知識を拡大し、様々な方法で
  新たな知識をまた獲得します。そうなってくると、自分の頭の中は戦場になっちゃうの
  です。こころの中は議論の戦場になります。知識人というのは、どうしても世に発表し
  たいのです。認めて欲しいのです。
  自分はものごとを知っているという自負が生じます。知識的な議論を好むこともこころ
  の不安の表れです。それで、この背景を理解して欲しいのです。お釈迦様は人間の全体
  的な生き方を観察してあのウダーナを唱えたのです
Yāvicchanti mukhāyāmaṃ,
欲求のままに口を開けて話すのみ
yena nītā na taṃ vidū”ti.
おのれを悟りに導く法を知らない
 *安穏のこころ(おのれを悟りに導く法):お釈迦様が推薦しているのは、禅定のこころ
  じゃなくて安穏のこころです。聖者の道を歩む人はこころの荒波を制御します。知識も
  こころに不安・不満を与えると発見する。いくら努力しても、知識は常に不完成なもの
  です。知識は永久的に不完全です。ですから、ある時、正しい知識は、ある時は正しく
  ないのです。
  仏道の人は、現象の本来の状態をありのままに知ることにするのです。ありのままに観
  ていると、どんどん智慧が現れます。智慧が現れると、これ以上知るべきものはないと
  知ります。
それで、こころの波が消えて安穏に達します。

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