ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第5章7カンカーレーヴァタの経 (現代訳・解説)


5.7 カンカーレーヴァタの経(47) 
  このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
 ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園において、尊者カンカーレーヴァタがお釈迦様から遠く離れていないところに、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて自己の疑いの思いを超えて清浄の知恵を観察しながら、坐っていたのです。 お釈迦様は、尊者カンカーレーヴァタが、遠く離れていないところに、瞑想姿で体を真っすぐに立てて自己の疑いの思いを超えて清浄の知恵を観察しながら、坐っているのを見ました。
  そのときお釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
 
この世ででも、あの世ででも、疑いがあるなら
自分で知られたものであろうと他人の教えられたものであろうと
瞑想者はすべてを捨てて
熱心に修行を行う
(58)  
       以上が第七の経となる。


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なにが書いてあるか


(直訳詩)
Yā kāci kaṅkhā idha vā huraṃ vā,
この世ででも、あの世でも、だれでも疑いがあるなら
Sakavediyā vā paravediyā vā;
自から知るべきものであろうと、他から知るべきものであろうと
Ye jhāyino tā pajahanti sabbā,
禅定者は一切を捨てる
Ātāpino brahmacariyaṃ carantā”ti.
熱心に梵行を修め行く。



解 説



Yā kāci kaṅkhā idha vā huraṃ vā,
この世ででも、あの世ででも、疑いがあるなら
 *派手な疑が、過去や将来という存在すらしない概念があると思って(その幻覚で)思考
  する時、現れます「自分がいる」とは現在の疑です。自分は過去にもいたのだろうか?
   自分は未来に将来にもいるのだろうか? という二つのテーマに分けて思考する時、限
  りない疑いが生じます。
 *idha vā huraṃ vā(この世、あの世)というのは、時間の感覚が間違っていて、人々は
  現在すら時間感覚が間違っている。現在すら見たくないでしょ。瞑想しながら他のこと
  を考えたいでしょ。過去に行きたいのですね。だから現在すら観察したくないので現在
  も誤解している。
Sakavediyā vā paravediyā vā;
自分で知られたものであろうと他人の教えられたものであろうと
 *Sakavediyā vā 自分自身で考えて、調べて達した一切の意見・見解で、それは疑です
 *paravediyā vā 他人から教えられたものです。それが本当かどうか分からない
 *宗教家、思想家、哲学者、先生、先輩などから学んで、理解した知識、納得した知識、
  信仰する無数の宗教の見解です。
Ye jhāyino tā pajahanti sabbā,
瞑想者はすべてを捨てて
 *(Kaṅkhāvitaraṇavisuddhiṃ)に達する人はすべての疑を捨てているのです。
 *こころはきれいになるのです。その人は初めて思考・妄想に頼ることを止めるのです。
  だから言葉の世界ではないのです。(認識情報を)言葉にしちゃうと思ったら、すべて
  は因縁による現象であると。
 *だからKaṅkhāvitaraṇavisuddhiṃとは、清浄道論では因縁法則を発見することです。



疑kaṅkhāとは何か
 すべての生命には疑がある。これは本能です。生きているのだったら、あなたには疑がある。この疑というのは煩悩の一つです。たまに我々の頭に出てくる疑というものではないのです。生命は色・声・香・味・触・法という認識情報をそのまま認識しないで自分の主観の現象、概念、想に変えます。それから、ものがある・存在するという前提を作ります。
自分の認識は「確か、確実」という自信がないのです。なぜなら、自分の意見が変わることを経験しているからです。自分の知識・見解に何ひとつ自信が持てないのです。疑の世界です。自分の知識は、すべて「そうだと思う」ものばかりなのです。
 「ものはある」という前提は「疑」です。「どのようにあるか」というテーマについては、無数の意見が現れます。決定する見解がないのです。
 自分の見解に執着すると、悩み、苦しみ、争いなどが起きます。疑の世界とは、「正しい答えを知らない」ということなのです。
 ヴィパッサナー実践で、概念に頼らずに、現象を観察する能力が現れます。現象は、因縁によってのみ成り立つこと、それはまた瞬間の存在であることを発見します。それで最終的にこころから「疑」が消えるのです。「何も見解が持てない」というこころが生まれるのです。ものの見方(見解)を持つと争いの世界に、ものの見方(見解)に執着すると間違った世界に閉じ込められるのです。見解は因縁によって瞬間で現れて消えるのです。「因果法則の流れ」だけ発見するのです。
それがkaṅkhāvitaraṇavisuddhiṃ(渡疑清浄)です。自由が生まれるのです。



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伝 記


カンカー・レーウァタ 


 お釈迦様の説法を聞いて出家、禅定をおさめてさとりを得る。とくに禅定に秀でて名高い。アヌルッダやナンディヤなどとともに、お釈迦様がナラカパーナの葉林にあったとき出家し、その教えを受ける。またサーリブックやマハーモッガラーナなどの諸大弟子とともにブッダの近くに侍し、祇園の講堂で夜を過ごした。とくに律に種々の疑問を抱いていたために、ガンガー(疑いの多い)レーヴァタと呼ばれたという。
「テーラガーター」三を説く。


三(完き人〉たちのこの知慧を見よ。暗夜に燃える火のごとく、光明を与え、眼をさずけ(かれらのもとに)来れる人々の疑いを除く。
尊き人・カンカー・レーウァタはこのように詩句を唱えた。

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