ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第5章6ソーナの経(現代訳・解説)
5.6 ソーナの経(46)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティー市外にあるジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園に住んでおられた。
同じころ、尊者マハーカッチャーナは、アヴァンティ国に住んでおられた、クララガラのパヴァッタ山に在俗の信者のソーナ・クティカンナが尊者マハーカッチャーナの世話係をつとめていた。
静かな所で坐禅する在俗の信者のソーナ・クティカンナの心にこのような考えが浮かんだのです。
「尊いマハーカッチャーナさまが法(教え)を説くところによれば、家に住みながら、法
螺貝(ほらがい)を磨いたような完全な清浄で、無垢な、完全無欠の修行を歩むのは難
しい。それならば、髪と髭を剃り落として黄褐色の衣をまとって出家してはどうだろう
か」
在俗の信者のソーナ・クティカンナは、尊者マハーカッチャーナのところに行き、尊者マハーカッチャーナにご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、こう申し上げた。
「尊き方よ、静かな所で瞑想するわたしの心にこのような考えが浮かびました。
『尊いマハーカッチャーナさまが法(教え)を説くところによれば、家に住みながら、法
螺貝を磨いたかのような完全なる清浄で、無垢な、完全無欠の修行を歩むのは難しい
。それならわたしは、髪と髭を剃り落として黄褐色の衣をまとって出家してはどうだろ
うか』
尊き方よ、尊いマハーカッチャーナさま、わたしを出家させてください」
このように言われたとき尊者マハーカッチャーナは、在俗の信者のソーナ・クティカンナにこう伝えた。
「ソーナさん生あるかぎり食事は一日一回、常に独り寝起き修行するのです。ソーナさん
あなたは、在家者のままで覚者たちの教えに専念しなさい――家にいて適当な時にの
み、食事は一日一回、独り寝起きする修行に専念するのです」
在俗の信者のソーナ・クティカンナの出家の気持ちは、すこし静かになった。
再度また、静かな所で瞑想する在俗の信者のソーナ・クティカンナの心に、このような考えが浮かびました。「尊貴なるマハーカッチャーナさまが法(教え)を説くところによれば、家に住みながら、法螺貝を磨いたかのような完全なる清浄で、無垢な、完全無欠の修行を歩むのは難しい。それならわたしは、髪と髭を剃り落として黄褐色の衣をまとって出家してはどうだろうか」
再度また、まさに、尊者マハーカッチャーナは、在俗の信者のソーナ・クティカンナに、こう言いました。「ソーナさん、生あるかぎり食事は一日一回、常に独り寝起きする修行は難しいのですよ。ソーナさんあなたは、在家者のままで覚者たちの教えに専念しなさい――家にいて適当な時にのみ、食事は一日一回、独り寝起きする修行に専念するのです」
在俗の信者のソーナ・クティカンナの出家の気持ちは、すこし静かになった。
三度また、静かな所で瞑想する在俗の信者のソーナ・クティカンナの心に、このような考えが浮かびました。「尊貴なるマハーカッチャーナさまが法(教え)を説くところによれば、家に住みながら、法螺貝を磨いたかのような完全なる清浄で、無垢な、完全無欠の修行を歩むのは難しい。それならわたしは、髪と髭を剃り落として黄褐色の衣をまとって出家してはどうだろうか」
三度また、在俗の信者のソーナ・クティカンナは、尊者マハーカッチャーナのところに行き、尊者マハーカッチャーナにご挨拶して、かたわらに坐り、こう申し上げた。
「静かな所で瞑想する在俗の信者のソーナ・クティカンナの心に、このような考えが浮か
びました。『尊いマハーカッチャーナさまが法(教え)を説くところによれば、家に住
みながら、法螺貝(ほらがい)を磨いような完全なる清浄にして、無垢で、完全無欠の
修行を歩むのは難しい。それならわたしは、髪と髭を剃り落として黄褐色の衣をまとっ
て出家してはどうだろうか』と。尊き方よ、尊いマハーカッチャーナさま、わたしを出
家させてください」
尊者マハーカッチャーナは在俗の信者のソーナ・クティカンナを出家させました。
そのころ、アヴァンティ国の南路は、ビクが少なく尊者マハーカッチャーナは三年をもの苦難と困難の後にあちらこちらから十人のビク衆を集めて尊者ソーナに具足戒を授けた。
雨期を過ごした静かな所で坐禅する尊者ソーナの心にこのような考えが浮かびました。
「わたしはお釈迦様を面前に見たことがない。聞いているだけである。
『お釈迦様はこのような方であると、聞いているだけである』と。
師がお許しになるなら、世尊、アラカン、正自覚者のところへと行きたいのです」
尊者ソーナは夕刻に坐禅から覚めて尊者マハーカッチャーナのいるところに行き、尊者マハーカッチャーナにご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐った尊者ソーナは、尊者マハーカッチャーナにこう言ったのです。
「尊き方よ、静かな所で瞑想するわたしの心に、このような考えが浮かびました。
『わたしは、世尊を面前に見たことがない、世尊は、このような方であると、ただ聞いているだけです。」
師がお許しになるなら世尊であり、アラカンであり、正自覚者である、お釈迦様のおら
れるところへと行きたいのです」
「ソーナよ、よいことです、よいことです。ソーナよ、世尊のおられるところへと行きな
さい。アラカンであり、正しく覚めた方とお会いしなさい。世尊であり、清らかな方に
して清らかさに満たされた方と、五感が寂静となり心が寂静となった方と、身体の観察
と心の止寂を獲得した方と、自己が制され五感の門が守られ五感が制されたナーガたる
方と、お会いしてわたしの言葉を世尊の足に頭をつけて伝えなさい、病苦、病悩少な
く、軽やかで、お元気で、平穏にお暮らしであるかを尋ねなさい。『尊き方よ、わたし
の師の尊者マハーカッチャーナは、世尊の足に、頭をつけてご挨拶(あいさつ)し。病
苦、病悩少なく、軽やかで、お元気で、平穏にお暮らしであるかをお伺いしておりま
す』」
「尊き方よ、わかりました」と、尊者ソーナは尊者マハーカッチャーナが語ったことを喜
んで、坐から立ち上がって尊者マハーカッチャーナにご挨拶して、寝具と座具をたたん
で、鉢と衣料をもってサーヴァッティー市に遊行の旅に出ました。遊行の旅をしなが
ら、サーヴァッティーのジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園のお釈迦様のおら
れるところに着いて、お釈迦様にご挨拶して、かたわらに坐った尊者ソーナは、お釈迦
様にこう申し上げました。
「尊き方よ、わたしの師の尊者マハーカッチャーナは、世尊の両の足に、頭をつけてご挨
拶し、病苦、病悩少なく、軽やかで、お元気で、平穏にお暮らしであるかお尋ねです」
「ビクよ、元気ですか。ぐあいよく。疲れ少なく旅をしてきましたか。托鉢で疲れていま
せんか」
「世尊よ、元気です、世尊よ、ぐあいよく。尊き方よ、疲れ少なく旅をしてきました。托
鉢で疲れていません」
お釈迦様は、尊者アーナンダに語りかけました。
「アーナンダよ、この来客のビクのために寝具と座具を用意してあげなさい」
そこで、尊者アーナンダはこう思ったのです。「世尊がそのビクのために、『アーナンダよ、この来客のビクのために寝具と座具を用意してあげなさい』と、わたしに言われるときは、お釈迦様は、そのビクと共に同じ僧房をと、ご希望なのだ。尊者ソーナと共に、同じ精舎にと、ご希望なのだ」と。
お釈迦様が住んでおられるその精舎に尊者ソーナのために尊者アーナンダは寝具と座具を用意しました。
お釈迦様は、夜ふけまで野外の座具で過ごして、足を洗って精舎に入られました。尊者ソーナも夜ふけまで野外の座具で過ごして、足を洗って精舎に入りました。
お釈迦様は、夜明に起きて尊者ソーナに言われた。
「ビクよ、法(教え)を語ってみなさい」
「尊き方よ、わかりました」
尊者ソーナは、お釈迦様に答えて、アッタカ・ヴァッカ(『スッタニパータ』第四章・義品)の十六の経を、声をあげて唱えたのです。お釈迦様は、尊者ソーナの声唱が終わると大いに喜びました。
「ビクよ、善いことです。善いことです。ビクよ、あなたは、アッタカ・ヴァッカの十六
の経を、しっかりと理解されている。あるがままに考えられ、正しく記憶された。あな
たの智ある言葉は明らかで誤りなく正しく意味がよくわかる。ビクよ、あなたは出家し
てどれだけの年になりますか」
「世尊よ、わたしは、出家して一年です」
「ビクよ、なぜ長いあいだ出家するまでに時間を掛けたのですか」
「尊き方よ、わたしは長いあいだ欲望のうちに危険を見てきましたが、在家の居住は雑用
や多くのことがあり、多くの用事があるのです」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
生きることの危険を見て
悟りの法を知り
聖者は束縛の世界を楽しまない
汚れなき人は束縛の生き方を楽しまない(57)
以上が第六の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある日お釈迦様に一度はお会いしたいと思い旅に出かけた尊者ソーナは、お釈迦様と面会し暖かく迎えられ、次の日お釈迦様より法(教え)を語りなさいと言われ、アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータの第四章)を唱えお釈迦様を喜ばせたお話。
この物語によれば、アッタカ・ヴァッカ(スッタニパータの第四章)は、お釈迦様がご存命の時から、すでに経典として唱えられており、お釈迦様自身が、ご自分の教えが、よく表されていると認めたとある、極めて貴重な資料となります。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Disvā ādīnavaṃ loke,
世間の危険を指して
ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;
依り所なき法(真理)を知り
Ariyo na ramatī pāpe,
聖者は悪を喜ばない
pāpe na ramatī sucī”ti.
清きは悪を喜ばない
解 説
Disvā ādīnavaṃ loke,
生きることの危険を見て
*loke・世とは生きること。
*世(生きること、命)は尊いもの、楽しいもの、ありがたいものという考えは、普通で
す。
*客観的に世(生きること、命)のデータを観察するならば、得よりも、損がはるかに多
いのだと分かるのです。それだから、データを取って客観的に観察してほしいです。
*認識する世(世界・物事)は、頭の中で現われる幻覚なのです。
ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;
悟りの法を知り
*その結果として、無執着の方が正しいのだと、無執着の境地を知っている。
*無執着の価値を知って、それに達することです。
*dhammaṃ nirūpadhiは解脱・涅槃を意味します。
Ariyo na ramatī pāpe,
聖者は束縛の世界を楽しまない
*(聖者は悪を楽しまない)それは当たり前です。そのことを言っているわけじゃないの
です。ここで言う悪とは、束縛によって成り立っている世界・生き方を好まないという
意味なのです。
pāpe na ramatī sucī
汚れなき人は束縛の生き方を楽しまない
*(汚れなき人は悪・幻覚の世界を楽しまない)
*煩悩を根絶した聖者は再び束縛によって成り立っている幻覚の世界に喜びを感じないと
いう意味なのです。
*pāpe na ramatī sucīのsucīとは無執着に達してこころが清らかになった人で、悟った人
です。pāpeというのは束縛の世界です。無執着に達した人が再び束縛の世界を好むわけ
がないのです。
*究極の喜びを知っている人が、束縛を好むわけがないのです
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伝 記
ソーナ
アヴァンティ国の長者の子。仏弟子のマハーカッチャーヤナがクララガラ市に近い山に帰り住んだときに、在家の信者となる。またブッダに、辺国のビクたちに対しては授戒の簡略化などの五事を願い、許された。美音第一ともいわれ、「テーラガーター」三六五~三六九を説く。
三六五 わたしは完全な戒律(具足或)を受けた。私は汚れ無く解脱している。わたしは尊き師(ブッダ)にお目にかかり、そうして住居の中に共に住んだ。
三六六 尊き師は夜を多くは野外で過ごされた。時を過す、しかたをよく知っておられる師に、そのとき、住居のなかに入られた。
三六七 岩山の洞窟に住む獅子のように、恐れやおののきを捨て去ってゴータマ(ブッダ)は、重衣を敷いて臥床を設けさせた。
三六八 次いて、正しく完全なさとりを開いた人(ブッダ)の弟子で、みごとなことばを発するソーナは、ブッダたちのうち、で最上の人の面前で、正しい教えを説いた。
三六九 個人存在を構成する五つの要素をすっかり知って、真っ直ぐな道を修めて、最上の静けさに達して、汚れなく、かれは円かな安らぎに入るであろう。
