ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教

仏教ベスト盤 ~ ウダーナ ~ を翻訳・解説

ウダーナ ~ ベスト・オブ・仏教 第4章4 ヤッカの打撃の経 (現代訳・解説)


4.4 ヤッカの打撃の経(34)
 このように、わたしは聞きました。
 あるとき、お釈迦様は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられた。
 ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)で、尊者サーリプッタと、尊者マハーモッガッラーナとが、カポータカンダラーに住んでいます。その時、尊者サーリプッタは月明かりの夜、髪を新しく剃り下ろし、野外に坐っておられたのです。ある瞑想の境地に入っていた。
 二人のヤッカが北から南へといくところ、なにかの用事があってヤッカたちは尊者サーリプッタが月明かりの夜、髪を新しく、剃り下ろし野外に坐っておられたのを見た。
一のヤッカが二のヤッカに
 「友よ、わたしは、このサマナの頭を殴ってみよと思う」
このように言われたとき、その二のヤッカはその一のヤッカに
 「友よ、やめなさい、サマナの頭を殴ってはいけない。友よ、この方は、秀でたサマナ
  、大いなる神通ある強い力ある方だ」
再度また、一のヤッカが二のヤッカに
 「友よ、わたしは、このサマナの頭を殴ってみよと思う」
その二のヤッカはその一のヤッカに
 「友よ、やめなさい、サマナを攻撃してはいけない。友よ、この方は、秀でたサマナ、大いなる神通ある強い力ある方だ」
三度また、そのヤッカは、そのヤッカに、
 「友よわたしは、このサマナの頭を殴ってみよと思う」
その二のヤッカはその一のヤッカに
 「友よ、やめなさい、サマナを攻撃してはいけない。友よ、この方は、秀でたサマナ、大
  いなる神通ある強い力ある方だ」
一のヤッカは、二のヤッカに取り合わずして、尊者サーリプッタ長老の頭を殴ってしまったのです。
 その打撃によって象を七ラタナ半、(長さの単位・一ラタナは約三十センチ)、地面に沈めてしまう程、あるいは大きな山の頂きを裂いてしまう程大きな打撃でした。
そのヤッカは「焼かれる」「焼かれる」と言いながら大地獄に落ちていった。
 尊者マハーモッガッラーナは人間を超えた清浄の天眼によって、そのヤッカが尊者サーリプッタ長老の頭を殴っているのを見ました。
 尊者サーリプッタのおられるところに行き。尊者サーリプッタに
 「友よ、大丈夫ですか。苦しくないですか。痛みはありますか」
 「友よ、モッガッラーナよ、大丈夫です。友よ、モッガッラーナよ、苦しくないです。た
  だ頭に少しの苦痛があります」
 「友よ、サーリプッタよ、めったにないことです。友よ、サーリプッタよ、はじめてのこ
  とです。尊者サーリプッタは、大いなる神通があり強い力がある。友よ、サーリプッタ
  よ、ヤッカは頭を殴りました。象を七ラタナ半、地面に沈めてしまう程の、大きな山の
  頂きを裂いてしまう程の大きな打撃でした。尊者サーリプッタは、友よ、モッガッラー
  ナよ、大丈夫です。友よ、モッガッラーナよ、苦しくないです。ただ頭に少しの苦痛が
  あります」
 友よ、モッガッラーナよ、めったにないことです。友よ、モッガッラーナよ、はじめてのことです、尊者マハーモッガッラーナは、大いなる神通あり、強い力がある。ヤッカを見ることができるのですから、わたしなどは泥鬼さえも見ません」  お釈迦様は、人間を超えた清浄の天耳によって大いなるナーガのような両者の会話を聞きました。
  そのときお釈迦様は、このことを知り、ウダーナを唱えました


岩山のように安定している
こころが情報によって揺れ動くことない
愛着すべき対象に愛着しない
怒るべき対象に怒りを示さない
心をこのように育てたならば
どうして苦をうけるのでしょうか
(43)






以上が第四の経となる。


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なにが書いてあるか


 詩の解説に入る前に自我意識について記載します、生きることは「自我意識」を中心にして回転し、色・声・香・味・触・法という認識情報を「自分中心」にした知識・世界・見解を捏造します。
 これが生命の「知識・真理」というもので、その「知識・真理」は他人の「知識・真理」と合致しないのです、これが対立の始まりです。
 一方では生き続けるために、こころに刺激が必要です。刺激とは貪・瞋・痴などの感
情と行為から溜まるポテンシャルである「業」になるのです。
 存在欲・渇愛がある生命は自分の期待どおりの色・声・香・味・触・法が得られないし、認識情報は殆ど期待するものではないので、対立、怒りの反応をするはめになります。
 これは、我々は輪廻システムに捉われているということです。そして、眼・耳・鼻・舌・身・意に色・声・香・味・触・法が何の制御もなく入ることを許して、好ましい情報は僅かで、好まない情報ばかり入り、こころがその情報に攻撃しなくてはいけないのです、しかし、こころは打たれて、傷つき、悩み、苦しみ、やがて負けます。
この4.4 ヤッカの打撃の経で何を仰っているかと言うと、「情報が触れて認識するけれども捏造はしない」ということです。


(直訳詩)
Yassa selūpamaṃ cittaṃ,
心が岩山のように
ṭhitaṃ nānupakampati;
震えず立たずむなら
Virattaṃ rajanīyesu,
染まるべきものに染まらず
kopaneyye na kuppati;
怒るべきことに怒らないなら
Yassevaṃ bhāvitaṃ cittaṃ,
このように修められた心なら
kuto taṃ dukkhamessatī”ti.
それは、どこから苦しみが来るのか


解 説


Yassa selūpamaṃ cittaṃ,
岩山のように安定している
 *selūpamaṃ cittaṃ,
 *岩山のように安定しているこころ
ṭhitaṃ nānupakampati;
こころが情報によって揺れ動くことない
 *安定したこころが情報によって揺れ動くことはない。
 *岩山のように安定しているこころは、情報に合わせて、情報が期待する定めた反応はし
  ないのです。
 *聖者は冷静にいるのです。
 *嫌なものに怒る、落ち込む、攻撃を受けたら、攻撃で返すか、負けを認めて逃げる、自
  分より美しい人に嫉妬する。このように、世にある不確定の情報に対してするべき反応
  は決まっています、生命はプログラムで動くロボットのようです。
 *色・声・香・味・触・法に聖者のこころを決まったパターンで操ることはできないの
  で、聖者に対して攻撃をかけることは無駄で、無意味です。
 *岩山に体当たりすることは危険で、聖者を攻撃すると、その力は自己破壊に変わりま
  す。
 *受け入れたい情報は自分の味方で、対立なく受け入れます。その場合は、こころが欲に
  染まり、自由がなくなり、情報の言われるままに行動するプログラムが動きます。
Virattaṃ rajanīyesu,
愛着すべき対象に愛着しない
kopaneyye na kuppati;
怒るべき対象に怒りを示さない
 *怒るべき対象に怒りを抱かない。
 *俗世間の人は常に「鬼の打撃」を受けています、世の流れに流れない、世の変化で悩ま
  ない、困らない、苦しみを受けない人はいません、世界のこと、自分の家族のこと、将
  来のことを心配しない瞬間はなく、鬼の打撃は止まらない。悩み、苦しみ、心配、憂
  い、悲しみなどがない時はありません。
 *聖者は自我が錯覚であることを発見して、経験しています、自と他とその他の一切現象
  も苦・無常・無我であると覚っいて、「攻撃を受ける」という概念すら無くなっている
  のです。
Yassevaṃ bhāvitaṃ cittaṃ,
心をこのように育てたならば
kuto taṃ dukkhamessatī”ti.
どうして苦をうけるのでしょうか
 *世の流れから脱出できたことを歓喜の偈で発表しているのです。

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